カオスに身を投じる人の所感

日々の所感や競技麻雀の記録を残しています。

北海道上空より

昨晩に何も知らない状態での発言について、つらつらとコメントを書いていこうと思う。

 


とあるサークルで、部員を1人やめさせた、ということが起きたらしい。俺自身はこの時、何も事情は知らず、普段から人を排除するという行為に疑問を感じる節があるため、以下のような発言をした。

「相容れないだとか、集団にとって都合が悪い人間を弾いたり、関係を断つのは簡単。しかしながら、そういう人間に対して健全な対話を試みるのも人生の一興だと思います。」・・・(*)

これは自分が日頃から思っていることであり、特別なことを言ったつもりはないが、意外と反響があり、批判もあったりで楽しく読ませていただいた。

さて、詳細というには些か少なすぎるが、やめさせた(で合っているのか?)人物(以下、甲とする)と現部長(以下、乙とする)のLINEのごく一部だが拝見させていただいた。なるほど、大まかな事情は分かった。

最初読んだ時には、事情を知らなくて出すぎた真似をしたか、と思ったりもしたが、何度か読んでいくうちに、先述の発言はやはり今回の件においてもある程度適用可能だと思った次第である。その理由を説明してみたい。


まず第一に、LINEトーク履歴のみでは、私が思う「健全な対話」を試みたようには思えなかったことがある。私が思う「健全な対話」とは、「相手を一人の人間として尊重した上で、第三者が見ても、意見の交換ができている」ような対話のことである。これについては、甲と乙の会話を見ていても、会話は成立していないと感じた。お互い感情だけで会話をしているように感じてしまった。そして、理由づけもしっかりしたものだとは思えなかった。



第二に、甲をやめさせるという意見が、いかにもサークルの全構成員の総意であるかのように書かれていたことである。果たして全構成員にアンケートでも取ったのか。一部のメインストリームに属している(と思っている)人達の総意ではないか。この部分においては、どうしても同調圧力が感じられてしまった。ここに今回の問題に対するヒントが隠されているように思う。これは私(ら)の一種の戒めでもある。

まとめると、
①健全な対話のもとで、
同調圧力を出来るだけ緩和したうえで
やめさせることができなかったか、という疑問を私は投げかけている。もちろん、これらは当事者でない以上、どこまでいっても推測の域を出ることはないし、構成員全体の意見が真に同一である場合には、ただただ愚かな発言であるとゴミ箱に葬られるかもしれない。

正直、マジョリティであり上の立場(と便宜上なっている)相手に対して何か否を唱えることは、相当な勇気がいるし、やる必要がなければやらない方が幸せかもしれない。マジョリティからの脱却は修羅の道かもしれない。

しかしながら、本来人間に優劣などないはずであり、マジョリティとかマイノリティとかいう概念はあくまで一集団の中で位置付けられるものである。そして集団同士での優劣もまたない。あくまで、全員が同一平面上に生きて、近しい位置に密集してぼんやり集団が形成されるだけである。密集度で結びつきの強さはあれど、その中での優劣はやはりないと私は思う。そんな中で、一集団において自分の意見を言いたくても言えない空気感は、一部のヒエラルキー上位(と本人は思っている人々)を除いて、少なからず居心地の悪い空間であるはずである。そんな空気感でのサークル活動は、個人個人が思い思いの楽しみを享受している空間と言えるだろうか。

 

今回の件で、事情事情と口を揃えて言いたいのであれば、規約については早急に取り決める必要があると思う。しかしながら、規約だからと無思考に陥ることも避けなければいけないだろう。とにかく考え続けて行動することでしか物事は分岐していかないような気がする。

 

こういう話を聞くたびに当事者間と第三者を交えてきちんと話す機会必要だよなあ、とは思うものの、なかなか実現しないよなあ。


そんなことを考えながら、強風のため遅延した新千歳ー羽田間の飛行機に乗るのでした・・・。家に帰れるかなあ・・・・。

 

P.S.

家にはギリギリ帰りましたとさ。